姉はちょうど50歳で亡くなった。
その日は突然やってきた。
朝6時、姉の入所先の施設の所長さんから電話があり、「〇〇ちゃん(姉の名前)が危ない、すぐに市民病院に来てほしい」
姉は、今までもしょっちゅう入院騒ぎがあったので、私は暢気に我が家の準備をしてから市民病院に向かった。
行くと、姉はもう死亡が確認されたあとで、安らかな表情で横たわっているところへ通された。
そっと触ってみると、まだ手は暖かかった。
急にこみあげるものがあって、私は「お姉ちゃん、ごめんなさい」となんどもいいながらわんわん泣いてしまった。
知的障害の姉、子供時代
小さなころは特に何も思わず、感じず普通に遊んでいた。
小学校高学年になって、何か問題が出てきたのだろう。
両親は姉と引っ越しをして、私は祖母と暮らした時期が2年ほどあった。
小学校4年の時に、また一緒に住むために転校することになったとき母は私に聞いた。
「〇〇子(姉の名)と同じ学校で嫌じゃない?」
私「べつに、なんで?」と答えたと思う。
その後、母が聞いてきたわけがわかった。
私の学年の男の子が「お前の姉ちゃん、特殊学級~」とののしってきたからだ。
中学生になると、姉は朝になるとおなかが痛いとトイレにこもり学校に行かなくなった。
いわゆる登校拒否症だ。
行かせようとしてもトイレから出てこず無理だ。
両親もこれではなかなか大変だ~とおもった。
私はなるべく気にしないように努めた。
中学卒業後、姉は受験をして私立高校に入学した。
中学時代とは一転して、毎日通学し、
テニス部に入り、友達もできて、今までのことが嘘のようにい嬉々とした姉がいた。
家政科で調理師の免許もとったのだ。
あとから思えば姉が一番輝いていた時だ。
周りの環境や友人が変われば、姉もこんなに変わるのだと内心驚いていた。
就職は本人が希望して、長野県のリゾートホテルの厨房に住み込みで入った。
3か月後帰ってきたとき、姉はおかしくなっていた。
精神病の発症?
やはり社会生活は厳しかったのだろう。
親元を離れるなどしないほうがよかったのだと、あとで思った。
私は大学受験があったので、あまりかかわることがなかったのだろう、
当時の姉のことはあまり覚えていないが、うつろで元気のない姉になって部屋に引きこもっていた。
母は姉に手を焼いていたと記憶する。
私は、いままで姉が「紀子ばっかり賢く生まれてわたしは、、、」というセリフを何度も聞いていたので、母の気持ちが姉に行くだろうことを期待し、大学進学をきっかけに実家から出ることを希望していた。
私は、希望通り家を出て東京の大学に通うことになった。
空白の記憶
私は、東京に出てからは、
気分的にも開放され、東京の人の明るい性格にも影響を受け、
とても清々した気持ちになったのを覚えている。
しばらくは自分のことばっかりに夢中になり、夏休みやお正月に家に帰ったとき
姉のことを聞いたり、病院に見舞いに行ったり、
今思えばちょっと他人事のように感じていた。
どんどん悪くなる気がした。
離れて暮らしていた期間約14~5年の間の姉の様子はよくわからない。
精神病院を入退院していたようだ。
この間わたしは、高校時代あんなに普通だった姉が、ここまで悪くなるのは
母の接し方が悪いからだと思い込んでいた。
愛情が足らない、と。
せっかく私が遠く離れているんだから、なんとかうまくやれないのか?と。
ちょうどそのころ、和久井映見が知的障がい者の役を演じたテレビドラマ PURE が放映され、夢中で見ていたので、そんなこと思ったのかもしれない。
姉を神奈川に呼んで、1週間一緒に住んでみた
私は32歳ぐらいのころだったか、ちょっと調子のよさそうな時期に姉が一人で私の家に遊びに来たことがあった。日中は私は仕事に出ているので、多少心配もあったが、初めの4~5日は順調に過ぎた。
今思えば、このわずかな期間が大人になって姉と過ごした穏やかな思い出のひと時だ。
お姉ちゃん、やればできるじゃん!とうれしく思った。
ところが、その後ひとりで散歩に出て、迷子になって知らない人に保護されて、その方のお宅に迎えにいくことになったり、泣きが多くなったりして、結局父が迎えにきて富山へ帰っていった。
母に偉そうなこと思ったけど、姉と過ごすのはやはり大変なことだと感じた。
富山の家族が、神奈川に越してきた
それから3年位経って、私の方にもいろいろ変化があり、私が年子の子どもを育てることになり、何かと大変だということで、私の両親が私の育児を援助するために富山から出てきてしまった(笑)
1年前に90代の祖母が亡くなっていたので身軽になったタイミングでもあった。
私の家から5分ぐらいのところに一軒家を借りて、両親と姉と暮らし始めた。
新しい生活は、両親や姉にも刺激的で、やはりはじめは楽しそうであった。
3人で私の子供の子守などをしてもらったりして、私も随分助かった。
こちらでの生活に慣れ半年くらい経ったころ、地域にある障がい者施設にいってみたらどうか?という話になり、
姉が興味のある喫茶とケーキ作りを行っている作業所に行ってみることになった。
やはりはじめは楽しそうに働き始めた。
美味しいパウンドケーキなどを作って販売などもしていたみたい。
ところがまた3か月ほど経つと問題が起こった。
「同じ作業所のメンバーの〇〇ちゃんが私に包丁を向けた」と訴えた。
姉の話は、本当かウソかなんてわからない。
相手もしかりだ。
いろいろ手を打ってみたが、またその作業所には通えなくなった。
そこからの話は、本当にひどいものだ。
あまりにに調子悪くなって、本人も精神病院に入院を望んだが、
混んでいてなかなか受け入れてくれるところがなかったのだ。
やっとみつけた病院に入院してほっとしたのもつかの間
面会に行ってみると、姉の目は異様にギラギラしていて、腕が付随運動で上げたり下げたりを繰り返していた。「これは明らかにおかしい」と母も私も感じた。
あとでわかったのは、入院した病院は悪徳精神病院と悪名高い病院だったようだ。
飲んでいる薬をきいて調べると、それは明らかに基準量をオーバーで、脳神経がおかしくなるほどのものだった。母はすぐにクレームをつけて、薬の量を減らしてもらい、何とか転院にこぎつけた。
しかし、それ以降姉は、完全に‘おかしな人‘になってしまったようだった。
いつもうつろか、幻聴や被害妄想に悩むような、そんな人になってしまい、その後入退院を繰り返す人となってしまった。
後悔してもしきれない。
その後ももっとつらい話はあるのだが、この辺でやめておこう。
施設に入所
父が亡くなって、母は同居を放棄したので、姉は施設に入ることになった。
神奈川に来てから10年ぐらい経っていた。
その施設との契約ごとや、障害者手帳や自立支援証などの役所関係の手続きやお金の管理がわたしの仕事となった。
費用の問題だが、障がい者年金では不足し持ち出しがでてそれがきつかったので、3年目からは結局生活保護を申請した。そうなるとお金の管理は施設側に移った。
時々姉から電話があり、「会いに来て、お願い」というので2週間に一度面会に行ったり、3か月に一度ぐらい外食に連れだしたりした。おやつや雑誌を欲しがったので買って届けたりした。
施設から自宅は車で30分ぐらいだった。
自営業が忙しかったり、子供の用事があったりする合間に、細々と通った。
私たちには心が通うような会話は存在しなかった。
幼稚な表面的なやり取りと、諭すのみだった。
思えば、ずっとそうだったかもしれない。
無邪気な子供のころを除けば、私はいつも表面的な会話しかしていなかったかもしれない。
姉妹と言っても、姉妹とは思えないようなそんな関係。
優しくも、冷たくもないそんな関係。
なぜ、姉に謝ったのか?
姉の死に顔を見たとき、私から出てきた言葉、
「おねえちゃん、ごめんね」とはどういう意味だったのか?考えてみる。
私は、「姉は生きてきて幸せだったのか?」と考えたのだった。
その時、近くに住んでいた母を一緒に行こうと誘ったが、母は姉の死に目に会いに来なかった。
「私にもっとできたことはなかったのか?」と考えた。
自分の無力さを思い知った。
世界でたった一人の私の姉の存在は、あまりにも小さく感じて悲しかった。
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